日本で最初の天気予報は、1884年(明治17年)6月1日に発表されました。
発表は、派出所などに張り出されたのです。
日本最初の天気予報は漠然とした一文だけだった
日本で初めての天気予報の内容は、次の一文のみです。
『 全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ 』
この意味は、こんな感じです。
(全国的に風向は一定ではなく、天気は変わり易く雨が降る傾向が強い)
予報内容が簡単なのは観測データが不足しているから
全国の天気予報を簡単な一行の文章でまとめています。
これは無理もないことで、当時の観測態勢と言えば、全国22ヶ所の観測所からの気象電信だけでした。
現在のような十分な情報を利用することは出来ませんでしたので、表現できる予報内容にも限界がありました。
海上からの情報もなく、無論、レーダーや気象衛星など発想もなかった時代です。
当時の全国22ヶ所の観測所は、次の通りです。
気象電信で報告される気象情報は、
気圧、風(風向と風力)、気温、雨量、天気
の5項目のみで、湿度さえなかったのです。
当時の天気図はこれほど単純だった
22ヶ所の観測所からの情報をもとにして、こんな天気図が作られました。
(内務省地理局気象室)
等圧線の数値が、760とか755と書かれていますが、水銀柱の数値ですね。
換算すると、760は1013hPaで755は1007hPaになります。
これだけの情報から、次の予報文を作ったのですから大したものです。
『全国的に風向は一定ではなく、天気は変わり易く雨が降る傾向が強い』と
日本で2番目と3番目の天気予報はこれ
これが午前6時の天気予報ですが、毎日3回の全国の天気予報の発表をしましたので、その日の午後2時と午後9時の天気予報も紹介しておきましょう。
午後2時(日本で2番目の天気予報) 『変リ易キ天気ニシテ風位定ラス 且雨降ル地方モアルベシ 』 (天気は変わりやすく、風は定まりません。地方によっては雨になります) 午後9時 (日本で3番目の天気予報) 『中部及ビ西部ハ晴或ハ好天気ナルベシ北部ノ一部ハ天気定ラス一部ハ曇天又ハ烟霧ナルベシ 』 (中部及び西部は好天で晴れるでしょう、北部の一部では天気は定まらず一部では曇りかもやがかかるでしょう) |
天気予報をなぜ派出所(交番)に張り出したのか
当時組織化された国家機関で身近だったのは警察だった
明治17年当時の社会情勢を考えてみましょう。
ラジオ放送が始まったのは、ここから41年後の1925年(大正14年)のことですから、全国の庶民に天気予報を伝える手段がなかったのです。
仕方なく、派出所(交番)などに張り出したのです。
なぜ、派出所かというと明治17年には、全国を網羅する政府の機関で最も普及していたのが警察の派出所だったのです。
政府の組織としていろいろな機関が全国に整備されるまで、警察は国家機関としてたくさんの業務を引き受けていました。
例えば、消防の仕事、保健所の仕事、営林署の仕事、労働基準監督署の仕事など種種雑多です。
そんな時代ですから、天気予報の通達場所として、派出所が選ばれたのでしょう。
国民の行動範囲は徒歩で動ける範囲だけ
明治17年の交通機関を考えれば、人々が動ける範囲といえば、実質的には徒歩で動ける範囲でした。
鉄道の本格的な普及はまだまだ先のことだし、自動車などは昭和に入ってからの普及ですから、この時代には歩くことが基本でした。
旅人が移動するとしても、1日に30km程度です。
そんな人々にとって、全国版の天気予報の需要があるでしょうか。
東北に住んでいる人にとっては、大阪や九州の天気がどうでも関心がないのです。
だから、全国版の天気予報に関心を向ける人はほとんどいなかったことでしょう。
天気予報は必要なくても天気図に意味があった
この当時に、気象関連の技術を日本に導入したのは、ドイツ人のイ・クニッピングでした。
彼の指導によって、上述の22ヶ所の観測所が整備され、電信技術を活用して情報を集中して、上述のような天気図が作成されたのです。
現在の天気図と比べれば不十分ですが、西から東への天気の流れを理解して、風の強さ雨量の数字の変化を熟視すれば、大まかな天気の流れが分かります。
イ・クニッピングは、天気図を普及させて、天気を読むことが重要だと考えていました。
しかし、文章で表示することにも意味があるとして、天気予報を始めたのです。
こうした、地道な努力が継続されたことによって、現在の気象観測システムやより詳細な天気予報技術につながっているのです。